NPO法人青少年自立援助センター/YSCグローバル・スクール/田中宝紀 (IKI TANAKA)

NPO法人青少年自立援助センター定住外国人子弟支援事業部統括コーディネーター/ 東京都福生市にて外国にルーツを持つ子どもと若者のための教育・自立就労支援事業運営を担当。Yahoo!ニュース個人オーサー。2児の母。

私が外国にルーツを持つ子どもを支えるようになったワケ

 <いじめから逃れるようにフィリピンへ・・・>

 

いくつか分岐点があるのですが、そもそもの始まりは16歳の時にフィリピンのハイスクールへ留学したことでした。小学生のころから、学校や習い事の教室でいじめを受けるようになり(無視レベルから靴の中にマヨネーズが入っていたようなレベルから、体操着が破られていたようなことまで・・・)、中学校でも馴染みきれないままの3年間を過ごしました。高校入学後、心機一転新しい人間関係が築けるかと思いきや、やはり「学校」と呼ばれる箱の中では苦しい思いが続きました。

 

そんな私を見て、このままだと「危うい」と感じたのか。

 

両親(特に父)が私に、フィリピンのとある田舎町にあるハイスクールで学ばないか、と提案しました。父親の知り合いのツテをたどって探した「道」でした。私は公立高校1年生を終えると、退学届けを提出し、フィリピンへ渡りました。

 

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 (フィリピンのハイスクール時代に担任の先生と)

 

初めての海外生活で、初めての1人暮らし。言葉、文化的ハードルはもちろんのこと、


・1日1回、数時間は必ず停電する

・スーパーがなく、買い物は「市場」で交渉しないと手に入らない

・炊飯器がなく、おなべにガスで米をたく(8割以上が「おこげ」に・・・)

・洗濯機がなく、井戸水にタライで洗濯する(服が穴だらけに・・・)

・学校の勉強が一切わからない。

 ・・・勉強だけでなく、学校自体のことがまったくわからないので、休みの日に制服を着て出かけて、途中で誰かに「休みだよ」と止められるとか、しょっちゅうでした。むろん、「宿題ガー」なんてレベルではありませんでした。
 

 その当時(20年前)インターネットは普及しておらず、郵便物は数ヶ月に1度しか届かないとか、国際電話が1分数百円して、ほとんど日本語に触れることができず、独り言と日本の歌を大声で歌うことで精神的に持ちこたえた・・・などなど。

 

 

<それでも「生きる」ことができた>

 

正直言えば「よく生存できた」というレベルのサバイバル生活だった時期もありましたが、それを乗り越えてこられたのは、フィリピンの方々のおかげでした。

 

クラスメートが何人も言葉もわからない私を四六時中かまってくれて、あちこちの家に一緒に押しかけていってご飯を食べさせてくれたり、近所の人があれやこれや何かと世話を焼いてくれたり(最初はタライでの洗濯方法がわからなくて、隣のおばちゃんに洗ってもらっていた・・・)、町のイベントがある時には必ず誰かが、私の家のドアを叩いて呼びにきてくれました。

 

1人でいる時間が逆に恋しくなるくらい人に囲まれて過ごした日々。

 

今思えば、「おもてなし」レベルではなく、コミュニティの一員として扱っていただけたのだ、と思います。地域の中にいる「困っている女の子」として、みなさんが手を差し伸べて下さった。

 

だから、その困っている女の子だった私も、安心して学び、数ヶ月で簡単な現地語の会話ができるようになり、英語で行われる授業であれば、教科や単元によっては「ついていく」こともできるようになりました。

 

長きに渡るいじめの経験から、鬱屈していた私自身の心は、フィリピンの方々のやさしさと、生き生きと生活している様子に触れて少しずつ(本当に少しずつでしたが)、前を向きはじめることができました。今考えると、あのまま日本に残っていたら、もしかしたら自ら命を絶つようなこともあったかもしれません。

 

出発前に誰もが「無謀」と言ったフィリピンでの生活。

 

教育(学歴)という意味では”寸断”でしたが、言葉すらわからない、何の役にも立たない自分をこんなにも支えてくれる人がいる、という経験は私の一生の財産となりました。

 

 

<「始まりの子」との出会い>


そして紆余曲折を経て、2008年。フィリピンの子ども支援を行うNGOを運営していたころ、国内事業として始めたボランティアベースの日本語教室に、1人のフィリピンにルーツを持つ女の子がやってきました。

 

日本語が少ししかわからず、日本の中学校でも支援はなく、日本人の友人もできず学校から足が遠のき、家庭では義理の「おじさん(日本人)」の高圧的な態度に怯え、そんな状況に嫌気がさして少し鬱屈している・・・

 

私はその子と出会った時、初めて日本にいる「外国にルーツを持つ子」という存在
を「再発見」しました。それまで、いくらでも「ハーフ」だったり、外国から転入してきた子どもたちには出会っていたのにもかかわらず、これほどまでに課題を抱え、それに対する支援もない存在であったということに気付いていませんでした。

 

そして何よりも、私のように右も左もわからない「外国人」を一員として迎え入れてくれるフィリピンの、あんなにあたたかな社会で育った子どもが、日本に来てその間逆のような環境に置かれていることにショックを受けました。

 

きっと、私がフィリピンで感じた何倍以上もの寂しさや孤独を感じていたことでしょう。

 

この女の子が「始まりの子」となり、私はこうした外国にルーツを持つ子どもたちのサポートに特化した支援プログラムを立ち上げました。そしてそのプログラムでの実績が、今日まで続く支援の足場となってくれました。

 

 

 

 

<日本社会の中で、少しでもあたたかさを・・・>

 

つらつらと書き連ねましたが、私が外国にルーツを持つ子どもをサポートするのは、私が経験したフィリピンのコミュニティのように、日本の社会の中で外国にルーツを持つ子どもたちあたたかさを感じてほしい。「一人じゃない」と知ってほしい。

 

そんな気持ちが柱となっています。(他にもいろいろと「らしい」理由は並べられますが、根本的には、個人的な体験が元になっています)


ちなみに今、その「始まりの子」は日本語ネイティブと対等に会話ができるくらいになり、漢字の読み書きもほとんど困難なくこなし、高校を卒業してその先のキャリアに向けてがんばっています。

 

かつてのその子のように、外国にルーツを持つ子どもたちが、心から「日本に来てよかった」と思うことができるよう、いつでもその支援のドアを、開けておきたいと思っています。