「先生、わたし『ガイジン』って名前じゃない!」
(写真:歴代の文集「なかよし」には思い出がぎっしり)
毎年、年度末となる3月に、子どもたちと文集を作っています。
長期に関わった子どもの中には、最初は外国語で書かれていた作文が、翌年には漢字が少し含まれる日本語の作文になり、そのさらに翌年には日本語ネイティブの作文と変わらないレベルまで到達する子どももいて、その変化を見比べることが一つの楽しみになっています。
子どもたちが書いた文集を時折読み返すと、「ここでたくさんの国の友達ができた」と言ったことや、その様々な国の友達と一緒に遊んだり、机を並べて勉強したことが多数あげられています。このスクールで同じような境遇の仲間と出会ったことが、日本で暮らす外国にルーツを持つ子どもたちにとっていかに大きなことだったか。彼らの結びつきの強さやお互いへの思いが、側で見ている私たちにもよく伝わってきます。
<「言葉」の壁を軽々と・・・>
このスクールの中で、子どもたち同士はいとも簡単に、言葉や文化、年齢や滞日年数の壁を越えてしまいます。ランチタイムには、中国、フィリピン、ネパール、パキスタン、ガーナの子どもたちが、まだお互いに日本語もままならないながらも、一緒にコンビニへ買い物にいったり、お菓子をわけあったり、Youtubeで動画を観て盛り上がったり・・・といった光景は珍しくありません。
どの国にルーツを持つ子どもが新たにやってきても、子どもたちはその子を受け入れ、時には障害の有無も越えて共に過ごしています。
日本に来て初めてできた友達がネパール人だったと、うれしそうにその「驚き」を共有してくれた中国にルーツを持つ子どももいました。(日本に来るまで「外国人」と仲良くなったことはなかったそうです)
<この中ではできるけど・・・>
いずれの子どもたちも、これだけボーダーレスに友人関係を構築することができるのに、このスクールの外ではなかなか「日本人」の友達を作ることができていません。学校に通っていない子どもにとっては、単純に出会いがないということもあるかもしれませんが・・・
ただ、そうでない子どもたちでも「日本人は・・・」と、このスクールの中では気にならない違いが気になるようで、『マジョリティの日本人とマイノリティの自分たち』という構図に陥りがちな点が気になるところです。
子どもたちはこのスクールの中で、ほとんど「中国(人)は・・・」「フィリピン(人)は・・・」と、お互いのルーツを元に「比較」をすることがありません。自らの過去の経験を紹介することはありますが、国と国やそこに暮らす人々同士を比べてよい、悪いと述べている姿はほとんど見られません。
それはおそらく、普段自分たちが日本の社会の中で、自発的に意識しているかどうかに関わらず、自らのルーツ(国)を「背負う・背負わされる」、あるいはそれを“代表させられる”体験を繰り返ししているためだと考えています。
そしてそれは決して心地よい経験ではなく、それゆえに子どもたちはこのスクールの中で、そうした先入観を極力排除し、1人の人間同士として関係を築こうとしているのかもしれないと思う今日この頃です。
<わたし『ガイジン』って名前じゃない!>
以前、ある子と2人きりで雑談していたときに、その子が
「先生、わたし『ガイジン』って名前じゃない!」
と言ったことがありました。
その子には、親御さんがつけてくれた名前があるにも関わらず、「ガイジン」あるいは「〇〇人」と、すれ違い様に言われた経験を、半分怒って半分泣きながら話してくれました。
人には誰しも「名前」があります。
「日本人」、「中国人」、「フィリピン人」「ペルー人」「外国人」と言う名前の人はここにはいません。その子のルーツや多様性を否定したり、ことさらに強調したりするのではなく、それを含めたその子、その人自身と「出会う」ことが、共生社会への一歩なのだろうと思っています。
そういう意味で”差異”を強調することで成立する「交流」ではなく、よりナチュラルに個人が出会えるプログラムや仕掛けがあるといいな、と思っています。