NPO法人青少年自立援助センター/YSCグローバル・スクール/田中宝紀 (IKI TANAKA)

NPO法人青少年自立援助センター定住外国人子弟支援事業部統括コーディネーター/ 東京都福生市にて外国にルーツを持つ子どもと若者のための教育・自立就労支援事業運営を担当。Yahoo!ニュース個人オーサー。2児の母。

【よくある質問:その2】外国にルーツを持つ子どもは、なぜ日本に来たんですか?

(Q)外国にルーツを持つ子どもは、なぜ日本に来たんですか?

 

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(A)「日本に来た」理由は様々ですし、日本で生まれた子ども達もいます。

それぞれ個別の事情がありますが、大まかなパターンに大別してご紹介します。

 

【呼び寄せ】で来日した子ども

支援現場で出会う、少なくない外国にルーツを持つ子ども達がこの「呼び寄せ」と呼ばれるパターンに当てはまります。

 <呼び寄せとは>

・外国人の親御さんが、子どもを出産後に出身国に暮らす親戚の元に預けて来日

 (日本で出産した子どもだけを、乳幼児期に母国に”送り返す”ことも)

 ↓

・日本での生活基盤が確立された後、子どもの教育の節目(小学校卒業、中学校相当修了、など)やビザが出たタイミングなどで子どもを来日させる

こうして呼び寄せられた子ども達は、日本で実の親と何年ぶりかに同居すること、日本語がほとんど(あるいは全く)わからない状態で来日し、日本の公立学校に就学・転入することになる、という点が概ね共通しています。

中には、実の母親と1才になるかならないかで国をまたいで別居となり、十数年ぶりに共に暮らす、という子どもも。離れて暮らしている間の様子や子どもの成長が完全には把握できない親御さんもいて、お互いに戸惑い、手探りの状態になる家庭もあります。

また、実母が離婚し、日本人男性と再婚→再婚相手との間に、子どもにとっては父親違いの兄弟がいることもあり、その「新しく築かれた家庭」に呼び寄せられた子が同居することも珍しくなく、「家族”再”統合」の課題も、もっと着目されるべきだと感じています。

 

【日本で生まれ育った子ども】

外国にルーツを持つ子ども達の全員が、「新たに来日した」わけではなく、日本人と外国人の国際結婚のカップルや、外国人のご両親が日本で生計を立てており、日本国内で生まれた子ども達も少なくありません。

厚生労働省の人口動態統計によると、国内で生まれる赤ちゃんのうち、30人に1人は父母または父、母のいずれかが外国人の親であることがわかります。

こうした子ども達の多くが、日本語の日常会話に不自由せず、日本語を第1言語(または母語)として育ちますが、家庭の中で何語が使われているかや、周囲の支援環境などによっては、学校の授業で使われるような難しい日本語が理解できなかったり、親の言葉(母語)がわからなくなり、親子間で使える共通言語がなくコミュニケーションが十分にとれない状況に陥ることもあります。

 また、小さな頃から見た目や自らのルーツによって「いじめ」「差別」「偏見」にさらされて育った子ども達も多数おり、「日本で生まれ育ったのに。日本語しかわからないのに、いつまでたっても日本人の仲間には入れてもらえない」と感じています。

 

【移動を繰り返している子ども】

外国にルーツを持つ子ども達の中で、難しい状況に陥りやすいのが、日本と外国を行ったりきたり、移動を繰り返している子どもたちです。

たとえば、小学生時代に呼び寄せられたものの、前述の「家族再統合」が上手くいかなかったり、日本語がわからず日本の学校不登校状態に陥ってしまったりなどの理由から出身国へ「帰国」したものの、帰国後はやはりお父さんやお母さんと共に暮らしたくて日本に再来日し、それでもやっぱり日本語の壁から学校に通えなくて再帰国・・・という子どもがいます。

別の子どもは、外国人保護者が派遣などで日本に仕事があるときに共に来日し、雇い止めで仕事を失って帰国。再度、日本の仕事が見つかり再来日・・・という状況を繰り返し、日本の学校でも、母国の学校でも十分に学ぶ機会が持てませんでした。

こうした移動を繰り返す子ども達は、どこの国でも落ち着いて学校で学ぶこともできず、どの国の言葉も年齢相応には伸びず・・・という状況に陥り易く、学力も語学力もないという行き詰った状態で出会うことも少なくありません。

 

全ての子ども達のために・・・

子ども達がいつ、どのように日本に来たとしても、あるいは日本で生まれたとしても、子どもの権利として保障されているように、十分な教育機会と、安心して過ごせる環境が必要です。

それはすぐ近い将来にリターンが得られる、社会的に重要な投資でもあります。

 日本で生まれ育った肌の色の違う(だけの)子どもに向かって、「国へ帰れ」と罵ってしまう子ども達が、グローバル化の時代に取り残されないためにも。多様性を豊かさの源泉とするためにも。

私たち大人が、今すべきことはたくさんあります。

 

【外国にルーツを持つ子ども達に、専門家による教育支援機会を届けます!】
YSCグローバル・スクールに通う子ども達、年間約100名の内25%~30%の子ども達が困窮・外国人ひとり親世帯に暮らす子ども達です。こうした子ども達に、質の高い、十分な量の日本語教育機会を届けるためにYSCグローバル・スクール内部奨学金を、一般の方々のご寄付により運営しています。
 
また、住んでいる自治体によっては予算や人材不足などから、日本語教育機会がまったくない子ども達もいます。こうした子ども達のために、2016年度からオンラインを活用したプロジェクトも運営しています。
 
地域格差や経済格差で子ども達の学びが制限されることのないよう、ぜひみなさんのお力をお貸しください。
 
 
◆YSCグローバル・スクールは、”GARDEN Journalism"様より、情報発信をご支援いただいています。主宰者である、ジャーナリスト堀潤さん取材の取材・動画ルポは【こちら】よりご覧いただけます。

【よくある質問:その1】外国にルーツを持つ子どもとは、外国人の子どものことですか?

(Q)最近よく耳にするようになった「外国にルーツを持つ子ども」とは、外国人の子どものことですか?

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(来日したばかりの子ども・若者が学ぶ日本語初級クラスの様子)

 

 (A)いいえ、外国人(籍)の子どもだけとは限りません。日本国籍の子どもの中にも外国にルーツを持つ子どもがいます。

 「外国にルーツを持つ子ども」とは、

 『国籍に関わらず、両親または親のどちらか一方が外国出身者である子ども』 のことです。厳密に統一された定義はありませんが、外国籍の子ども(=外国人の子ども)はもちろんのこと、日本国籍の子どもであっても、「ハーフ」や「ダブル」など国際結婚カップルの子どもは外国にルーツを持っています。

 この他、難民2世や様々な理由から届出をだしていない無国籍状態の子どもの中にも、外国にルーツを持つ子どもは含まれています。

さらに、いわゆる「帰国子女」と呼ばれる子ども達を、この範囲に含めて捉えることもあります。

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統一された呼び方ではありません

同じように、日本語を母語としなかったり、親が外国出身者であったり、複数の文化やルーツを持つ子どもたちのことを支援する大人の間でも、公的にも、統一された呼び方はありません。

「外国にルーツを持つ子ども」のほかにも、外国につながる子ども、外国につながりを持つ子ども、JSL児童生徒(Japanese as a Second Language=日本語が第1言語でない子ども)、日本語を母語としない子ども、など様々な呼び方があります。

支援をする専門家やボランティアの所属先や、一定の地域でどのように呼ばれているか、に違いがあるようです。

 

子ども達自身が、誇りに思えるように。

いずれの呼び方によせ、当事者である子ども達自身が「私は、外国にルーツを持つ子どもです」と自己紹介することはほとんどなく、一般にもまだあまり知られていない言葉でもあります。

 

本来であれば、「移民の子ども」という呼び方が(その存在を表す上では)適切な子ども達ですが、周囲にいる支援者でさえ(空気を読んでか、忖度か)、あまりこのように呼ぶことはありません。そう言う、私自身も含めて。

 メディアの方々と話しをしていても、「呼びづらい」「使いづらい」「わかりづらい」と言われるこの言葉。なかなか「これ」と言うものがありません。こうした事態こそが、子ども達の日本社会における存在の不安定さの現われでもあり、私たちが直視できない「移民の子ども」の実態そのものを端的に表しているのではないでしょうか。

 個人的には、社会的存在としての子ども達は「移民の子ども」を。子ども達が直面する諸課題(例えば日本語の壁、など)には、「言語難民問題」など、それぞれの課題がぱっとわかる呼び方を考えればよいと思っていますが、どんな呼び方であったとしても、子ども達自身がそのように呼ばれ誇らしい、そのように名乗ることがうれしい、と思えるようなものであることが最善です。

 

「呼び方」の問題を考えるとき、その言葉で呼ばれる子ども達自身を取り巻く環境を変えて行く事、その言葉を使って子ども達を呼ぶ周囲の人々の意識が変わること、も合わせて考えて行きたいですね。

 

 

【外国にルーツを持つ子ども達に、専門家による教育支援機会を届けます!】
YSCグローバル・スクールに通う子ども達、年間約100名の内25%~30%の子ども達が困窮・外国人ひとり親世帯に暮らす子ども達です。こうした子ども達に、質の高い、十分な量の日本語教育機会を届けるためにYSCグローバル・スクール内部奨学金を、一般の方々のご寄付により運営しています。
 
また、住んでいる自治体によっては予算や人材不足などから、日本語教育機会がまったくない子ども達もいます。こうした子ども達のために、2016年度からオンラインを活用したプロジェクトも運営しています。
 
地域格差や経済格差で子ども達の学びが制限されることのないよう、ぜひみなさんのお力をお貸しください。
 
 
◆YSCグローバル・スクールは、”GARDEN Journalism"様より、情報発信をご支援いただいています。主宰者である、ジャーナリスト堀潤さん取材の取材・動画ルポは【こちら】よりご覧いただけます。
 
 
 

善人の沈黙こそが、恐怖―『「差別はいけない」という当たり前の事』を当たり前にできるようになりたい

ヘイトスピーチ」という言葉を知っていますか?

 

2013年の流行語大賞トップテンにもランクインしたこの言葉。聞いたことがあるでしょうか?「ヘイト」というのは、もともとは「憎しみ」という意味で、ヘイトスピーチはおおむね「特定の人種、民族、宗教など、少数の人たちに対して、暴力や差別をあおったり、おとしめたりするような、侮蔑的(ぶべつてき)な表現のこと」と定義されています。

ここ数年で、東京や大阪などを中心に、韓国・朝鮮や中国にルーツを持つ人々を対象としたヘイト・デモ活動が活発になったり、インターネット上でも、こうした人々などに対するヘイトスピーチが広がっていることが問題となっています。こうしたデモ活動の様子は動画サイトなどで見ることもでき、耳をふさぎたくなるような言葉(「殺せ」「ゴキブリ○○人」など)を人々が叫ぶ様子が映し出されています。

 

「ヘイト」に対抗する「カウンター」行動

 

こうしたヘイトスピーチやデモに対する抗議行動も活発化し、「カウンター・アクション(行動)」と呼ばれ、ヘイト・デモが予定されている同じ日に同じ場所で横断幕やプラカードを掲げたり、ヘイト・デモを行う人々に対して差別的言動を止めるよう呼びかけたりなどのアクションを起こしています。

 

こうしたヘイト・スピーチやそれに対するカウンター行動は、直接デモを見たことがない方であっても、Twiiterなどで日常的に目にすることが増えています。

 

正直に言うと、「ヘイト」も「カウンター」も、どちらも罵詈雑言の応酬に見える

 

私は外国にルーツを持つ子どもの支援をする立場の人間であり、かつ、(うっすらとながら)海外にルーツを持っていることもあり、ヘイト・スピーチや人種差別的言動は到底容認できないと考えていますが、同様に、身近なところで見聞きするカウンター側の行動も、私自身のスタンスとは離れていることもあり、自らがそこに身を投じることは難しい、とも思っています。

 

正直に言うと、Twitterなどでいわゆる「ネトウヨ」アカウントのツイートに対して、反対の声をあげるアカウントの人々の言葉も、往々にして「聞くに堪えない」ことが多く、「違いがわからないな」と思うこともあったりします。

 

でも、何もせずにはいられない

 

だからと言って、ヘイト・スピーチを野放しにするような社会であってはいけない、と思う・・・。そんなモヤモヤした思いを持ちながら、具体的に何ができるのかを考える日々が長く続きました。

 

今でも、「罵り合い」でない手段で、人種差別のない社会を目指す上で、自分のような「争うことが苦手」な人間ができることを探し続けています。

 

 

そんな中で、出会ったヒント

 

先日、私たちのクラウドファンディングをサポートしてくださった支援者の方と直接お会いする機会を得ました。その方は「銀座 No! Hate小店」という名称で、いわゆる「カウンター」とは少し異なるスタンスでヘイト・スピーチに対する反対活動をしている方でした。

 

活動名称にあるとおり、東京の銀座の街で行われるヘイトを目の当たりにし、幼い頃からご本人にとってなじみのあった銀座の街で、ヘイトがあることを許すことができない、と感じた素直な気持ちを原動力として、2016年の春に始まった活動です。


一方で、活動開始後、銀座の街の人々と話しをしてまわると、ヘイト・デモもカウンター・デモも同じように良く思われていないことが明らかとなり、「街の人が引いている」ことに気づいたと言います。

 

そこで、銀座 No! Hate小店では、ヘイトスピーチとは何か、なぜ野放しにしておいてはいけないのか、などを伝える基礎講座を開催することで、「(ヘイトは嫌だけど)カウンターもちょっと・・・」と考えている、”銀座という街が好きな人々”が、落ち着いて学ぶ機会を提供してきました。

 

「私たちは「従来のハードなカウンター」に心から尊敬の念を持っています。彼らが意識的に汚れ仕事をやってくれたからこそ社会問題として可視化され、ヘイトの垂れ流しが抑止されてきたと感謝しています。 」

と銀座No! Hate小店の方々はおっしゃいます。

「小店の活動はそれぞれの得意分野を生かした分業であり、広い意味で(「従来のハードなカウンター」との)協働と捉えております」()内は筆者加筆

 

同じ方向を向きながらも、違う分野で活動する。そんな協働のあり方に、私自身、強く賛同しました。

 

今回、初めて小店の方々とお会いすることで、「いわゆる「カウンター活動」ではない方法で、ヘイトスピーチに対抗する」そんなやり方もあるのだ、という事自体が新鮮な発見となり、また、、自分自身ができること、のヒントを見出すことができた貴重な機会をいただきました。

 

『「差別はいけない」という当たり前のこと』を発信する銀座であることを願って・・・

 

銀座 No! Hate小店の方とお会いして最も印象的だったのは、「当たり前のことを当たり前に言う」、という、これまた当たり前の姿でした。この当たり前が今、最も難しい時代を迎えていることもまた、あらためて思い知らされました。

 

ー善人の沈黙こそが、恐怖。

最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。

The ultimate tragedy is not the oppression and cruelty by the bad people 

but the silence over that by the good people.

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師

 

去る、2017年1月16日は米国では「キング牧師の日」という祝日となっています。毎年、キング牧師の誕生日である1月15日に近い、1月の第3月曜日を、彼の功績を称える式典が行われたり、人種差別について学び、考えるイベントなどが開催されたりしています。

私たち1人1人が、日本国内で起きている人種差別やヘイトスピーチの現状を学び、No!という意志を示すこと。あらためてその重要性が高まっているなと思う一日でした。

 

「銀座No!Hate小店」では、第2回反ヘイトスピーチ基礎講座を来月、2月19日に銀座にて開催される予定です。

銀座が好き!という方、ヘイトスピーチって何?という方など、この機会にぜひ。

詳細はこちらからどうぞ。

 

義務ではないけど「みんなそうしてる」の壁-外国人生活者に届かない生活情報グレーゾーン

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たった1人、小学校の入学式にジャージで出席したAさん
 

それは私の息子の入学式の時のことでした。いわゆるセレモニースーツを着た親子で色めきだっていた学校の体育館。中には普段着で出席している外国人保護者が数名いましたが、その子どもたちはスーツやドレスを着せてもらい、ピカピカのランドセルを背負っていました。

 

そんな中、たった1人だけジャージのズボンにトレーナーという姿で入場してきたのが、Aさんです。Aさんは小学校入学の数か月前に来日し、日本語がほとんどわからないひとり親のお母さんと共に生活していました。

 

 

多言語での情報提供は進みつつあるけれど・・・

 

外国人保護者にとって日本の小学校に入る際、その教育システムの違いや学校関係の「用語」(うわばき、筆箱、体育、遠足など)が理解しづらく、第1の壁となっています。このため、自治体や支援関係者により、外国人保護者のために日本の学校制度や、写真やイラストなどを使って学用品などを説明した資料が多言語で作成され、その多くが無料で公開されるなど、情報提供への努力が各地で行われています。

 

一方で、子どもの教育に関わる事項の中には、明文化されていない「慣習」的な部分もあり、その「見えない学校文化」とも呼び得るものは地域差もあり、こうした多言語情報には含まれないことが多くあります。

 

あえて「セレモニースーツを着ない選択」なら良いのだけど・・・
 

その内の1つが、「入学式のセレモニースーツの着用」であり、なんとなく私たち日本人にとって当たり前ではあるものの、義務ではないというグレーゾーンでもあります。

 

こうした多分に文化的な情報は、すでに子どもが小学校に入学したことがある「先輩外国人」からのアドバイスがなければ、来日したばかりの外国人保護者にとってキャッチすることが難しいものとなっています。

 

もちろん、義務ではないため普段着で出ること自体は何の問題もないはずですが、きれいなスーツを着た1年生の中で「たった1人」普段着を着ていたAさんがどのような気持ちで式の間過ごしたのか、は気になるところです。

(当のAさんは気にしていないかもしれませんが・・・)

 

もし、Aさんのお母さんが「日本の小学校の入学式にはセレモニースーツを着る」ことが圧倒的に多い、という情報を得ていて、その上でわが子に普段着で出席させるという選択をしたのであれば、もう何も言う事はありません。(私個人もこの「慣習」にはやや懐疑的で、不必要では、と思うところも)

 

でも私が知る限り、Aさんのお母さんは日本語がわからず、同じ国の出身者とのつながりも希薄な様子がうかがえ、おそらく入学式の服装についての情報は事前に得られていなかったのではないかと思います。

 

生活者である外国人にとって伝えるべき情報をもう一度考えたい

 

この手の慣習的情報は、義務ではないため、自治体が提供することは難しい側面もあるかもしれません。民間の支援者にとっても、伝えるべき情報として多言語化するかどうか判断に悩むところかもしれません。

 

学校の入学式以外にも、冠婚葬祭や地域活動など、「決まってはいないけれど、なんとなく、みんながこう」という慣習的な部分こそ、長く日本に暮らす(あるいはこれから暮らしていく)生活者の外国人にとって「壁」を感じるものであるかもしれません。

 

以前は外国人の方々は1つの特定のエリアに集まって暮らすことが多くありましたが、現在は多くの自治体に生活する外国人がいるような状況でもあります。同じ国の出身者が1人もいない、というような事もあるでしょうし、同じ地域に暮らす外国人同士だからと言ってネットワークが形成され、情報を交換しているとは限りません。

 

特に子育てをする外国人保護者の「孤立」は、課題として取り上げられることも増えてきました。

 

外国人の方々の日本への定住・永住志向の高まりと、散在化が全国的に指摘されている中で、あらためて「日本で生活をすること」を念頭に、生活文化や地域の慣習などを含また情報提供の在り方を考えてみたいと思っています。

『意図せず、外国人に大量のワサビを盛る国、日本』はイヤだ。

本当の悪意を自認して差別している人間はそう多くない。

大阪にあるチェーンの寿司店で韓国や中国から来た方々を中心に、わざと大量のワサビを入れた寿司を提供していた件。最初はネタなのかと思っていましたが、店側が「謝罪文」を掲載する事態となり、新聞でも報道され、実際に起きた事実であったことがわかりました。

店側は「差別的な意図は全くない」と否定していますが、意図的か意図的でないかは免罪符にはなるでしょうか。

 

いじめる側や差別をする側、他者を傷つける側の人間が、本当の悪意を自認してそれを実行している、ということは子どもから大人まで、そう多くはないのではないかと感じます。

「意図していなかった」「軽い気持ちだった」「冗談のつもりだった」「そこまで傷つくとは思っていなかった」

加害者側の言い訳としてよく並ぶ文言です。

 

おそらく、全員ではないものの、少なくない数の「加害者」が、本気で「軽い気持ちだった」と思いながらいじめや差別を行っているのではないでしょうか。

 

 

「意図しない差別・いやがらせ」、身近にも。

当然のことながら、被害者側はそうは思いません。「差別的な意図なく大量のワサビを外国人だけに盛る」という行為が招いた結果は、海を越えて日本という国のイメージを損なうものとなりました。

 

今回はワサビテロとも言われている事態が、インターネットを通じて明るみに出ましたが、こうした「意図しない差別・いやがらせ」は大なり小なり日常茶飯事に起きているのではないかと感じています。

 

最近外国人アルバイトが増えたコンビニや牛丼チェーンなど。そこで働くアジア系の留学生の若者に、横柄な態度をとる客の姿を、見たことはありませんか?(私はあります。”偶然”にも、何度も) 


「ハーフタレント」や外国にルーツを持つ芸能人の方々がこぞって過去の「いじめ」体験を語る、その内容がどのタレントさんのものも似通っており「あるある」だな、と思ったことはありませんか?(肌や目の色の違いを気持ち悪いと言われる/国に帰れと言われる、など)

 

それは加害者側や一般の方々にとっては「偶然」かもしれません。「たまたま」起きたできごとなのかもしれません。

 

しかし、被害を受けた側とっては忘れることのできない出来事として、胸に刻まれます。「ハーフタレント」の方々の相次ぐカミングアウトは、被害を受けた側の心の傷の大きさを端的に証明しているようです。

 

私たちの身近には「悪気のない」「意図しない」「軽い気持ち」の差別があふれています。私が支援する外国にルーツを持つ子どもたちも、いじめや差別の経験を語る子どもは少なくありません。

 

インターネット上では、「日本は島国で、歴史的地理的経緯上、”そういう”文化や気質があるので・・・」というエクスキューズを見ることがありますが、だからと言って「意図しない」行為の免罪符になるとは思えません。

 

今、メディアでは「外国人が驚く日本」「日本大好き外国人」など、何かのプロパガンダかと思えるような番組が連日のように放送されています。まるで「日本人は地理的・歴史的・文化的・精神的に特殊である」ことを強調するかのように。

 

しかし、果たして日本はそれほど特殊な国なのでしょうか?私たちは特別な存在なのでしょうか?だから、「意図せず、外国人に大量のワサビを盛る」というようなことをするのでしょうか?しても、許されるのでしょうか?

 

この国の「閉鎖性」については否定しません。そうしたものを育みやすい社会的な特徴があるかもしれないことも、理解できます。しかし、そろそろ私たちはその「特別な国日本」を過去のものとする必要があるのではないでしょうか。

 

ワサビのツケを日本社会全体で負うことになる時代

 

「日本のある地域の小さな店の店員」の起こしたワサビの一件、20年前であればこれほど世間を騒がすことはなかったかもしれません。嫌な思いをした外国人のお客さんが、身近な友人や知人にその思い出を苦々しく語る程度で、あくまでも「運が悪かった」ということで収束したのかもしれません。

 

きっと、ガイドブックにも「この店はワサビを盛りすぎるので注意」などというネガティブな情報が活字として掲載されることはなかったでしょうし、その影響は限定的だったかもしれません。

 

しかし今や情報発信の主体は個人となり、ポジティブな情報もネガティブな情報も、すぐさまインターネットを通して全世界に発信できる環境が整っています。ワサビ寿司も写真という決定的な証拠付きで、あっという間に(言語障壁を除き)誰もがアクセスできる情報として駆け巡りました。

 

そして悪いことに、こうした情報は、一語一句が記憶に残るとは限りません。

 

「日本のある地域の小さな店の店員」という主語は、情報がめぐるうちに「日本のある地域の店」となり、最終的には「日本の店」や「日本」「日本人」と単純化され、人々の記憶に定着することにもなりかねません。

 

「日本のレストランで外国人は大量のワサビを盛られる」

と聞いたら、どう思うでしょうか?

 

いっしょくたにしないでくれ、と思うかもしれません。しかし、インターネットが張り巡らされた現代に、そうはいかないリスクをすでに私たちは背負っています。改めて鎖国でもしない限りは、逃れられない現実です。

 

さらに、今は外国人観光客だけでなく、外国人労働者やその家族の受け入れが進みつつあり、「お客さん」や「地域住人」として、日本人だけのことを考えてビジネスやサービスを組み立てていては、対応が間に合わない局面も増えてきています。

 

インターネット上では悪い情報は光のようなスピードで駆け巡りますが、同時に、良い情報もしっかり発信され、蓄積され、誰もが自由に引き出すことができるのも特徴です。「特殊な国」として大切に育んできた文化や風土、ホスピタリティ。今、この時代にこそ積極的に外国人の方々に体験し、喜んでいただく事で、「日本の良いところ」を広げていくことができるのだろうと思います。

 

そろそろ「特殊な国ジャパン」は過去のものにして、新しい時代の日本に向かって歩んでいけたらいいな。