NPO法人青少年自立援助センター/YSCグローバル・スクール/田中宝紀 (IKI TANAKA)

NPO法人青少年自立援助センター定住外国人子弟支援事業部統括コーディネーター/ 東京都福生市にて外国にルーツを持つ子どもと若者のための教育・自立就労支援事業運営を担当。Yahoo!ニュース個人オーサー。2児の母。

外国にルーツを持つ子どもと学校ー不安や戸惑いはどちらも同じ

 

 

私たち、YSCグローバル・スクールでは文科省委託事業時代より、学校や関係諸機関との協力・連携を大切な支援戦略の一つとして取り組んできました。

 

 

ikitanaka.hatenablog.com

 

でもご紹介しましたが、その市町村内部に日本語指導を必要とする外国人児童生徒が「5人未満」である自治体は、全体の 50%に上り、同じく日本語指導が必要な日本国籍児童生徒でも、「5人未満」の市町村が 326 市町村で全体の57%を占めています。

 

こうした状況の自治体にある学校内で、本人も保護者も日本語がまったくわからない、というような外国にルーツを持つ子どものために、「適切な」支援を行うことは人的・予算的に難しいことが現状です。

 

 

<「日本人の子どもですら、最近大変なのに・・・」>

 

というつぶやきが、学校の先生からよく聞こえてきます。正直な本音であると思いますし、そこを「先生なんだから何とかしてください!」と言うつもりはありません。初めて外国にルーツを持つ子どもを担当することになった先生や学校が戸惑うのは当然だろうと思っています。

 

私たちの現場では、1人の義務教育年齢にある外国にルーツを持つ子どもが入所すると、まず、在籍しているまたは在籍予定の小中学校や教育委員会に連絡を取ります。(もっとも、ここ数年は学校側から紹介されてこちらのスクールにやってくる子どもが多く、連携のスタートが学校発信である場合がほとんどです)

 

ほとんどの場合、支援の各段階において、学校側の受け入れ態勢や意向などを確認し、外国にルーツを持つ子ども本人やその家族の意向とすり合わせながら、必要な支援を検討し提案・実施していて、受け入れ後も恒常的に学校側、家庭との情報共有、連携などを行っています。

 

 

<「連携」を生きたものにしたい・・・>

 

こうした取り組みを多文化コーディネーターを中心にコツコツと続けてきたことで、今ではある自治体の子どもに関わる公的機関関係者のネットワークに参加し、定期的に開かれる会合に出席したり、支援をしている生徒の学校面談に同席したり、教職員向けの勉強会でお話をさせていただいたり、と様々なレベルで連携を図れるようになりました。

 

担当の多文化コーディネーターによせる、学校の先生方の信頼も大きく、気軽に電話をかけてきて下さる先生も少なくありません。

 

外国にルーツを持つ子どもたちにとって、もっとも大きな社会の受け皿は間違いなく、学校です。その学校の戸惑いや不安を少しでも小さくするお手伝いをすることで、学校や先生たちが外国にルーツを持つ子どもたちを前向きに受け入れることができるようになれば、と願っています。

 

 

<学校からのSOS、歓迎しています>

 

中には、子どもの教育はやはり学校が全面的に責任を負うべきもので、

 

「民間の支援が充実すると、学校の先生が丸投げすることになってしまう(ので、問題だ)」

 

とおっしゃる方もおられますが、私は学校や、そこでがんばる先生方全員が万能だとは思いません。

 

まして、日本語の通じない保護者や子どもたちをどのように支援、教育するのかについては、ほとんどの方にとって「未知・未経験」の領域であり、そこはやはりサポート体制を学校の外側、民間や地域とも構築しておくべきで、必要に応じてSOSを出せる環境がなければ、先生にとってだけでなく、外国にルーツを持つ子ども自身にとって不適切な状況が長引くだけ、になってしまいます。

 

私たちのスクールでは、所属している生徒の在籍学校に留まらず、地域支援者や他県の学校関係者からの相談を受け付けており、身近な支援機関や教材の紹介、指導内容についての助言などを行っています。

 

また、学校の進路担当や担任の先生、地域支援者向けの講座や勉強会を開催し、学校・地域における外国にルーツを持つ家庭との教育分野における共生を推進しています。

 

これにより、せっかく支援終了し、学校に“復学”したはずの子どもが、学校の受け入れ態勢などが不十分で、私たちの現場へ出戻ってきてしまうような事態を少しでも防ぎたいと思っています。

 

 

<子どもたちの最善のために>

 

以前、臨床心理士鈴木晶子さんのブログにこんなエントリーがありました。

akikosuzuki.net

 

この記事で、鈴木さんは 

”『実は閉鎖的なのは学校ではなく地域なのではないか、『既に学校だけを「閉鎖的で困った機関」にする段階は終わっていると感じます』”

 

と述べていらっしゃいました。

同感です。


私たち学校外の支援機関が、積極的に学校からのSOSを拾い集めていくことで、お互いに連携しやすい、開かれた関係づくりをよりスピーディーに進めていけるのだと思っています。

 

学校の声も小さいけれど、そこで苦しむ子ども自身からのSOSの声はもっと小さい。まして外国にルーツを持つ子どもで、日本語がまだできない状況あれば、その子のSOSを受信できる機関自体が少なく、状況悪化を招きやすい可能性があります。

 

今後も、外国にルーツを持つ子どもの専門的支援機関として、学校との協力連携、先生方のサポートやエンパワーメントを積極的に行うことで、地域におけるこうした子どもたちの受け皿づくりに寄与して行けたら、と考えています。

 

「先生、わたし『ガイジン』って名前じゃない!」

(写真:歴代の文集「なかよし」には思い出がぎっしり)

 

毎年、年度末となる3月に、子どもたちと文集を作っています。
長期に関わった子どもの中には、最初は外国語で書かれていた作文が、翌年には漢字が少し含まれる日本語の作文になり、そのさらに翌年には日本語ネイティブの作文と変わらないレベルまで到達する子どももいて、その変化を見比べることが一つの楽しみになっています。

 

子どもたちが書いた文集を時折読み返すと、「ここでたくさんの国の友達ができた」と言ったことや、その様々な国の友達と一緒に遊んだり、机を並べて勉強したことが多数あげられています。このスクールで同じような境遇の仲間と出会ったことが、日本で暮らす外国にルーツを持つ子どもたちにとっていかに大きなことだったか。彼らの結びつきの強さやお互いへの思いが、側で見ている私たちにもよく伝わってきます。

 

 

<「言葉」の壁を軽々と・・・>

 

このスクールの中で、子どもたち同士はいとも簡単に、言葉や文化、年齢や滞日年数の壁を越えてしまいます。ランチタイムには、中国、フィリピン、ネパール、パキスタン、ガーナの子どもたちが、まだお互いに日本語もままならないながらも、一緒にコンビニへ買い物にいったり、お菓子をわけあったり、Youtubeで動画を観て盛り上がったり・・・といった光景は珍しくありません。

 

どの国にルーツを持つ子どもが新たにやってきても、子どもたちはその子を受け入れ、時には障害の有無も越えて共に過ごしています。

 

日本に来て初めてできた友達がネパール人だったと、うれしそうにその「驚き」を共有してくれた中国にルーツを持つ子どももいました。(日本に来るまで「外国人」と仲良くなったことはなかったそうです)

 

 

<この中ではできるけど・・・>

 

いずれの子どもたちも、これだけボーダーレスに友人関係を構築することができるのに、このスクールの外ではなかなか「日本人」の友達を作ることができていません。学校に通っていない子どもにとっては、単純に出会いがないということもあるかもしれませんが・・・

 

ただ、そうでない子どもたちでも「日本人は・・・」と、このスクールの中では気にならない違いが気になるようで、『マジョリティの日本人とマイノリティの自分たち』という構図に陥りがちな点が気になるところです。

 

子どもたちはこのスクールの中で、ほとんど「中国(人)は・・・」「フィリピン(人)は・・・」と、お互いのルーツを元に「比較」をすることがありません。自らの過去の経験を紹介することはありますが、国と国やそこに暮らす人々同士を比べてよい、悪いと述べている姿はほとんど見られません。

 

それはおそらく、普段自分たちが日本の社会の中で、自発的に意識しているかどうかに関わらず、自らのルーツ(国)を「背負う・背負わされる」、あるいはそれを“代表させられる”体験を繰り返ししているためだと考えています。

 

そしてそれは決して心地よい経験ではなく、それゆえに子どもたちはこのスクールの中で、そうした先入観を極力排除し、1人の人間同士として関係を築こうとしているのかもしれないと思う今日この頃です。

 

 

<わたし『ガイジン』って名前じゃない!>

 

以前、ある子と2人きりで雑談していたときに、その子が
「先生、わたし『ガイジン』って名前じゃない!」
と言ったことがありました。

 

その子には、親御さんがつけてくれた名前があるにも関わらず、「ガイジン」あるいは「〇〇人」と、すれ違い様に言われた経験を、半分怒って半分泣きながら話してくれました。

 

人には誰しも「名前」があります。


「日本人」、「中国人」、「フィリピン人」「ペルー人」「外国人」と言う名前の人はここにはいません。その子のルーツや多様性を否定したり、ことさらに強調したりするのではなく、それを含めたその子、その人自身と「出会う」ことが、共生社会への一歩なのだろうと思っています。

 

そういう意味で”差異”を強調することで成立する「交流」ではなく、よりナチュラルに個人が出会えるプログラムや仕掛けがあるといいな、と思っています。

「本との出会い」が外国にルーツを持つ子どもたちの人生を守る!?

<読み書きのできない大人が世界に約8万人>

 

さて、前回のエントリー

 

ikitanaka.hatenablog.com

 

では、国際識字デーについて取り上げました。
文字を読んだり、書いたりできること。そこに書かれた情報を理解し、判断し、適切に行動すること。

 

私を含め、このエントリーを読んでくださっている皆様にとっては、「できて当たり前」の事に困難を抱えている15歳以上の大人が世界で約8億人(UNESCO)もいて、さらに学校に通えない子どもたち(非識字者になるリスクが高い子どもたち)が6,700万人もいる、ということに、改めて衝撃を受けました。

 

そして日本の社会にも。日本語指導を必要とする児童生徒が公的な統計上は3万7000人います。さらにここに含まれない(けれども、機能的非識字の状態にある)子どもたちや、かつての子どもたちを含めると・・・どれだけの子どもたち、かつての子どもたちが日本の社会の中で「読み書き」ができないことによって社会生活上不利な状態に置かれているのか。その数は無視してはならないほど多いのではないかと感じています。

 

 

<外国にルーツを持つ子ども・保護者にとって「本」とは>

 

図書館が社会インフラとして整備され無料で利用できたり、学校では読書推進習慣などの取り組みがあったりと、私たちは生活の中で本やそれを読むことが大切である、というメッセージを受け取りながら成長してきました。また、雑誌やマンガ、小説など自らも自由に本を選び、購入することができる環境があり、ジャンルはともかく、本を身近に感じる、と思える方は少なくないのではないでしょうか。

 

一方で、私たちの現場にやってくる子どもたちの多くが、いわゆる開発途上国にルーツを持っています。開発途上国で暮らしてみると、本や雑誌など、「紙」を必要とする製品の値段が高いことに驚かされます。時には、1冊の雑誌が低所得層、貧困層にとって1日分の収入を超えることも珍しくありません。図書館などのインフラも整備されておらず、こうした環境で生まれ育った(富裕層以外の)子どもたちにとって、本は「身近」なものではありません。

 

日本で生まれ育った外国にルーツを持つ子どもたちであっても、外国人保護者自身が本を身近に感じることの無い環境で育った場合、子どものそばに本を置いたり、読み聞かせたり、ということを子育ての中でどこまで重視することができるか。貧困の悪循環の一部としての非識字は家庭・家族内で世代継承しやすいと言えます。

 

さらに日本で入手することのできる本の大半が、当然ながら日本語で書かれており、保護者が日本語の読み書きができなければ、いくら整備された図書館も「資源」として活用することはできません。また、外国語書籍は高価であり、入手しづらく、外国人保護者にとっては子どものために母語の書籍をそろえることは、困難です。

 

少なくない数の外国人保護者が経済的・時間的に逼迫した状況にあります。

 

・経済的な余裕が無く(母語の)本を買い与えることができない

・昼夜働きづめで子どもに読み聞かせる時間的余裕がない

・日本語がわからないため、読み聞かせてあげられない

 

など、外国人の親御さんが日本社会の中でわが子に本を身近に感じられる環境を用意することはとてもハードルの高いものになっています。

 

 

<「シングルリミテッド」に陥らなかった子どもたち>

 

過去エントリー

 

ikitanaka.hatenablog.com

 

にて、外国にルーツを持ちながらも日本語が唯一の言語であり、かつその日本語の力が小学校低学年程度にとどまってしまう「シングルリミテッド」についてご紹介しました。

 

これらシングルリミテッドの子どもたちは、ひとり親である外国人保護者が自分のもっとも得意な言語“ではない”日本語のみで子育てをした、という共通項を持っていました。

 

ただ一方で、現場では同じ状況にありながらも「シングルリミテッド」に陥らなかった子どもたちもいました。これらの子どもたちは、「日本語ネイティブ家庭」に生まれ育った子どもたちと比べても、漢字を含む日本語の読み書きに困難が見られず、学校の勉強(すごく良い、というわけではありませんでしたが)についても、平均点前後の得点を取ることがありました。

 

シングルリミテッドの子どもたちと同じ状況(外国人ひとり親が日本語で子育て)にありながらも、日本語の力を一定程度伸ばしてきた子どもたち。

 

いったい何が違うのか?

 

これは現場で出会ったごく限られたケースを比較しているに過ぎないため、必ずしも、ということでは決してありませんが、後者の子どもたちに共通していたのは「読書」でした。

 

マンガから図鑑や小説など。ジャンルはさまざまですが、彼らはよくスクールにある本棚の前に立ち、本を眺め、手に取っていました。時に図書館で借りたティーンズ文庫を片手にスクールにやってきました。

 

家庭の中か、学校か。子どもたちはどこかで「本を読む」というスキルを身につけ、それが彼らの語彙を増やし、知っている漢字の量を増やし、読解力をはぐくんだため、学校の勉強に「ついていく」力となったのではないかと考えています。


識字の課題を解決するために、各国NGOなどによって開発途上国移動図書館を導入するというプロジェクトが以前から数多く行われています。「本」に触れる。親しむ。それが「識字」のために効果的である、ということなのでしょう。
 

 

 

<ささやかな「本棚」に願いをこめて>

 

私たちの現場にもささやかながら、子どもたちが本と親しめるように、古本屋をめぐって探し集めた洋書や、スタッフの家族・友人の旅行の際に購入してもらった中国語やスペイン語で書かれたマンガ・文庫が並んでいます。日本語の絵本や図鑑、マンガなどの多くはみなさんから寄贈していただいたもので、これらの本は子どもたちが自由に手に取ることができ、貸し出しもしています。

 

 

日本語教育はもちろんですが、子どもたちの健やかな成長を支えていく上では何語かにかかわらず、健全な「ことばの発達」を支えることが不可欠であり、全国各地の支援者の方々が手探り状態の中、ご尽力なさっているのはまさにこの点かと思います。

 

「本との出会い」を支えることは、課題解決や予防への少なくとも一つの効果的な手法となりそうです。

 

支援現場に本を置く紹介することも方法ですし、最近そのポテンシャルの高さに注目があつまっている全国各地の図書館に、多言語の蔵書を増やすことも一つの方法となりそうです。

 

あ、Kindleなどで読むことのできる母語の書籍へのアクセスを確保する、ということも考えられそうですね!

「機能的非識字」による経済・社会的損失が、日本は約1兆円!?

毎年、9月8日は『国際識字(しきじ)デー』であることをご存知でしょうか?

1965年にUNESCOが宣言して以来、識字の重要性や取り組みについて再認識するためのイベントが世界各地で開かれています。

 

 

 

「識字」というと、開発途上国の女性や子どもたちの姿が浮かぶ方が多いのではないでしょうか。識字に関する統計を見ても、日本は識字率99%とあり、他の先進諸国にとっても「過去の、解決済みの課題」と言ったイメージが強いように思います。

 

実は『識字』には2種類あり、一般にイメージされやすい「識字」の目安は母語で自分の名前を書くことができる(つまり、「非識字」は自分の名前を書くことができない)状態にあるかどうか。日本語で言えばひらがな、カタカナなどの文字の読み書きができるかどうか、という基本的な能力を指しています。このレベルであれば、小学校への就学率と照らし合わせて「識字率99%」という言い方は正しいと言えそうです。

 

 

<もう一つの”識字”は身近なところに>

 

もう一方の識字の力は「機能的識字」(そうでない状態を「機能的非識字(Functional illiteracy)と呼ばれます。基本的な日本語の読み書き(識字)は可能であるものの、それを機能的に利活用する能力の有無を示しています。

 

例えば、

・家電の説明書を読んで、その通りに設置したり利用する
・災害情報を文字で理解し適切な行動をとる(これは重要ですね)
・薬の服用方法について書かれた説明文書を読み、正しく服用する
・法的な契約書等を理解し、適切な判断のもと契約を行う
・新聞に書かれている内容、掲載されている表やグラフが表している数値の意味を理解し、適切な情報を得る

など、日常生活に欠かすことのできない能力です。

 

ここまで並べると、上記のようなことができない「機能的非識字」状態の方々は、日本にも「いるかもしれない」と思えてくるのではないでしょうか。

 

WIREDニュースでは過去にイタリアのライターが、

wired.jp

という衝撃的なタイトルの関連記事を執筆していました。イタリアでは、10人中3人が、機能的非識字なのだそうです。

 

母語で」という制約を取り除くとしたら、まさに、私たちの現場で出会う外国にルーツを持つ子どもたち(およびその保護者)は、日本社会において「機能的非識字」の状態に陥っている、あるいは陥りやすい存在であると言え、彼らの抱える困難の一端を表し得るキーワードであると思います。

 

 

<”先進”か”途上”かにかかわらず>

 

この(機能的)非識字についてのレポートが先月、

http://worldliteracyfoundation.org/

というNGOから公表されました。

 

そのレポートのタイトルは「The Economic & Social Cost of Illiteracy(非識字による経済・社会的コスト 」といいます。レポートの推計によれば、日本における非識字(機能的非識字を含む)が及ぼす経済・社会的損失はなんと、年間約1兆円(約$84bn)に上り、米国や日本などGDPの高い国であればあるほど、その影響力は大きいことが以下のグラフからわかります。

 

(出展:the guardian "Illiteracy will cost global economy $1.2tn in 2015”より)

 

(経済的に発展した社会であればあるほど、高度な情報処理能力を必要とする仕事が多くなり、非識字者の就労がより限定的になることや、社会保障費用が割高であることなどが理由として考えられます)

 

 

<”非識字”がもたらすリスクは個人にとどまらず>

 

非識字の状態は、さっと考えても
・不安定な雇用や失業のリスク
・病気が長期化(適切な服薬や健康管理能力の欠如)
・犯罪に巻き込まれやすい(不利な契約文書を理解できずだまされる、など)
などのリスクが高まる、ということは想像がしやすいのではないでしょうか。

 

また、そうした個人や家族が増えることで、社会にとっても生産性の低下や医療等社会保障にかかるコストの増加などの影響があるということも、容易に想像できます。

 

逆に言えばこうした非識字の課題を解決することで、(約1兆円の損失を出しているとされる日本であれば)プロジェクトにかかる経費を差し引いても大きなリターンが望まれるということになります。

 

ちなみに、文科省の委託事業を受けていた時代、1人当たりの外国にルーツを持つ子どもにかかる年間の教育支援費用は20万円未満でした。この規模で、1年に100人以上が専門家による支援を受けることができます。

 

支援機関を最大限長く見積もり5年としても、1人当たり100万円です。この100万円で非識字状態を回避し、教育を受け、就労し、社会的に自立してその力を社会に還元する・・・という楽観的で最善のストーリーであれば、支援を受けた個人にも、社会にも損失はありません。

 

この社会的投資としての「支援」。長期的な視点で見た時にもたらされる社会的な便益の大きさは、若年無業者に対する支援においても関係者から言及されているところです。

 

民間団体である私たちは、クラウドファンディングなどを通して、個人や企業の皆様のご協力を仰いでいるところですが、外国にルーツを持つ子どもや大人だけでなく、(機能的)非識字状態に苦しむすべての方々に対して、公的にも経済・社会的リターンを見据えた投資の視点に立って(そして日本社会に暮らす一個人の幸せの最大化を目的として)拡充されるよう強く望んでいます。

家庭内公用語は日本語-外国にルーツを持つ“あたらしい”家族

<現場での”トレンド”に変化が>

 

これまでにつらつらと外国にルーツを持つ子どもたちのことを書いてきましたが、おおむねその前提となっていたのは「両親とも同国出身外国人の子ども」または「外国人と日本人の両親を持つ(いわゆるハーフの)子ども」のいずれかであることでした。

 

家庭の経済状況や日本語の習得状況や母語状況、学校への通学状況等に係わらず、私たちの現場で出会うほとんどの子どもたちは外国の同国出身者同士父母またはどちらかが日本人のカップルの間に生まれています。おそらく、全国のほとんどの支援者の方々が出会う子どもたちの大半も、同じなのではないかと思います。

 

しかし昨年度、これまでの現場の“トレンド”に少し変化が見られました。
それは、複数「異なる外国出身の父親と母親との間に生まれた外国にルーツを持つ子どもたち」との出会いでした。

 

 

 

 

<父、母、子どもの第1言語がそれぞれ異なる家族>


たとえばタイ出身の母親とブラジル出身の父親が日本で出会い、家庭を築き、その間に生まれた子ども、のように父親の第1言語(母語)と母親の第1言語(母語)異なる上、いずれも日本語ではないケースです。

 

どの国とどの国のカップルが多い、などの傾向を見て取れるほどではありませんが、それでも1組、2組ではありません。

 

そしてこれらの夫婦、親子、家族間の“公用語”に日本語(英語のケースも)が用いられていて、その子どもたちが話せる言葉は母語でも父語でもない日本語のみ、という状況。現場にとっては“あたらしい”外国にルーツを持つ子どもたち、でした。

こうした子どもたちの多くが、以前から言及しているシングルリミテッドの状況に陥るかどうか、まだ事例数が少ないためなんとも言えませんが、その可能性は高いと言えそうで、引き続きサポートを行っています。

 

 

<愛が言葉を越えないこともあるかもしれないから・・・>

 

現場でもお互いの母語が日本語ではなく、かつ異なるルーツを持っている女子と男子が付き合い始めて、その共通言語が「日本語」、というカップルの噂を耳にすることが多くなりました。こうした若者らがこれから結婚し、家庭を築いて出産をしたら、その家庭の中の“公用語”は日本語になるでしょうし、子育ても日本語で行われることになるでしょう。

 

これまでは「母語」と「日本語」の2言語のみがあって、それぞれがどの程度発達するか/させることができるか、のようなケースが主たる前提となっていましたが、今後はより多様で複雑な言語・文化的バックグラウンドを有する子どもたちとの出会いが増えるのではないかと思っています。

 

それが今すぐに切り分けるべき特別な課題であるかどうかはわかりませんが、シングルリミテッドの子どもたちと同様に、「唯一の言葉が日本語」という子どもたち、そして子どもとのコミュニケーションは外国語である日本語を介してしか取ることができない外国出身の親御さんたちにとって、『日本語を身につける』ことの重要性、必然性が高いケースといえます。

 

 

<人の営みのダイナミズムを小さな現場で感じています>

 

こうした状況を目の当たりにすると、この小さな現場の中につまっている多様性や国際性にあらためて驚きます。そして日本の中の国際化が、“(ネイティブ)日本人”が介在しないカタチであっても深化してゆき、世代を継承していることに、私は個人的に喜びに近い感情を持っています。

 

人はどこにでも生まれ、成長し、恋をして家族を築き、命をつなぐのだな、と、人の営みのダイナミズムのようなものに触れている気分です。

 

“日本語ネイティブ”の定義も今後、変化していきそうですね。